昭和四十九年十月九日 朝の御理解 第五十八節
                                                                                                                                                                御理解 第五十八節 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはな  らぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし  。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
                                                                                                                                                                 様々な難儀な事があります。本当に人に、それこそ、悪言雑言、もうそれこそ、これ以上の悪言雑言はなかろうと思うような事が。この泥棒じゃとか、盗人じゃとかいうような雑言だと思うですね。
 もう堪えられない、忍び難い。こんな事まで言われてというような場合は、ございます。まあこれは、そういう悪口を言われたりだけではなくて、そういう、例えば、これ以上、もう辛抱できないといったような問題に置き換えても良い訳ですけれども、そういう時にです。しっかり信心の帯をしておきませんと、おかげを頂けない事になるです。
 これは、例えば、ここでは悪口を言う。お前は盗人のような人間じゃとか、乞食のような奴じゃとかと、例えば、言われるような場合であっても、それをじっと辛抱しておくことも、しっかり信心ができとらんとできんのですけれども。その大本とでも申しましょうか。そういう悪口を言われなければならない、その大本を探らせてもらわなければいけんです。
 昨日一昨日先一昨日でした。ある方が、もうそれこそ、今日の御理解と同じです。御商売をしておられますが、計算が少し違っておる。成程、確かに違っておると。それを、あんたが盗っとるんだと言い張られる。又、夫婦の者に、家内には、もう本当に、それこそ生れが悪いから。もうそれこそ乞食のようなおなごじゃと言われる。もう夫婦の者が。もう愈々悲しい。【 】最後の手段に出ようと思うとる。それから、日頃、信心を致しておりますから、夫婦でその事を一生懸命、神様に。今度、御本部参拝をさして頂くようになっとりますから、とにかく、今度の御本部参拝まで、まあ、我慢しよう。そして、腹を決めようと、夫婦で話をした。
 ところがね、その晩に御夢を頂いた。その御夢というのが、合楽の御信者さん方皆一緒。親先生も先頭だったけれども、沢山のバスに分乗してどこへか行くような状態のところであった。バスの停留所から乗らせて頂く。ところが、バスの停留所の椅子にですね、前アメリカの大統領であるニクソンという人がおられましたですね。そのニクソンという人も、バスに乗るために、その自分のかけておる腰掛けにかけておられる。自分は、もう、そんな子供さんは実際おられんのだけれども、子供をおんぶして、バスに乗るための準備をしておるというような御夢であった。
 それで、昨日、お参りして来てから、こういう事があって、夫婦で、こういう風に話を決めて、そして、愈々の最後の、言うならば、手段を盗らせて頂こうと、夫婦で話を決めました。ところが、その晩、今申しますような御夢を頂いたが、どういう御神意であろうかと、こう言うのです。
 それぞれ、お互いの運命というものが、まあ、言うならば、定まっておる。運命付けられておる。難儀なら難儀という。それは、その、やはり、そういう運命の下に、星の下に生れておる。信心は、そういう、例えば、どのような困った、又は、苦しい星の下に生れておっても、難儀な事であっても、その難儀のおかげで徳を受ける。その難儀のおかげで力を受ける。そういう、例えば、忌まわしい、又は、難儀な運命の下にあったからこそ、徳を受けた。力を受けたというのが、信心です。これは、その時点から、おかげを頂いていくというのは、信心によらなければ、できる事ではありません。
 道徳的なとか、修養ぐらいな事で、頂けるものではありません。お徳を受けるという事は。そこで、その難儀なら難儀の本当の様相、その実際の姿というものはです。分からせて頂けば頂くほど、それは只事ではない。言うならば、神様のお働きである事が分かって来るのです。言うなら、言うならば、難儀を背負っておる。言うならば、十字架を背負っておる。
 そこで、私が申しました。それが赤ん坊であるという事はです。やはり、それは、おんぶして、そういう重荷はないほうが良いのだけれども、その重荷をもう下ろそう。さあ下ろそうと言わずに、その赤ん坊を大事に大事に育てる事になったら、その赤ん坊が育つ。立派に成長する。そして、その赤ん坊が親を見てくれるようなおかげになりますよと言うて、話した事でした。
 運命の赤ん坊。皆が苦しければ、それは、今取って下ろしてもらいたいと思うけれども、その赤ん坊を大事に、それこそ自分の子供のように思うて、それを大事に育てていくおかげを頂いたら、その赤ん坊が育って、それが親を見てくれるようなおかげにもなる。
 その方が頂いておる、そのアメリカの前大統領のニクソンという人が、どうして使われただろうかと、私は、その事を神様にお願いさして頂いたらね、ニクソンという事は、憎んだら損という事だ。自分に泥棒と言った。主人は泥棒言われた。自分は乞食のように言われた。しかも、悪言雑言も前々のことから、もうあるだかな、なかかの事を言われてです。これで辛抱ができる筈はない。
 そして、その神様へ、所謂、向わせて頂いてです。今度、御本部参拝が済んでから、愈々決行しようと、最後の手段を決行しようと、二人で話し合った。その晩、今のような御夢を頂いた。ですから、自分達ではその夢がどういう事か、分からなかったけれども、昨日お参りをして来て、そのお届けけをさせて頂いて、御本部参拝、帰ってからどころではない。早速、明くる日、それがスキッとした事になるだろうと思うのです。
 これは私達の思い違い。これは私達の考え違い。これは私達の頂き方が間違っておった。成程、泥棒と言われ、乞食と言われた事は、はがいい事だけれども、それを、それが人でなくて、そう言うて下さったのが神様だと分かったと言うのです。分からなければならんというのである。そして、その運命の、その難儀な問題を背負っておる、その背負っておるその問題そのものをです。大事にしていかなければならないというのである。
 実意丁寧に、それを、難儀を、その難儀を下ろそうというのではなくて、その難儀そのものを、よくよく吟味さしてもらい、難儀の、言うならば、本質というか、難儀の実相というものをです。分からして頂いてです。それを大事にしていく。その難儀が、難儀の赤ん坊が育つ。育った時には、その難儀様のおかげで、難儀という赤ん坊が私を見てくれ、私に力を与えてくれ、私に徳を与えてくれるという事にまでなる。
 してみるとです。あれがこう言うた。これがこう言うたというて、それこそ、断腸の思いもするだろうけれども。それを憎まず。それを恨まず。それを神様のお働きとしてです。頂かしてもらうという生き方が一番本当の事であり、間違いない事である。後々で考えてみてね、あれが神様じゃった。あん時、ああ言われた。あれが神の声じゃったと分かるようになるよ。背負っておる、その赤ん坊を本気で大切にしていかにゃいけませんよ。それは難儀な事ですけれども、この難儀な赤ん坊を大事にしていくところから、新たな運命の展開が始まってくるんだというふうに聞いて頂いた。
 あれがああ言うたからというて、確かにです。憎むような心では、信心の帯がしっかりできていない証拠です。
 このくらいの事なら辛抱するけれども、とてもこげな事を言われてからは辛抱はできんと。所謂、こげな事言うちゃと言われる時ほどが、だから大事。辛抱すると言うけれども、もう辛抱できませんというところを辛抱する事が辛抱じゃと。
 小倉の初代の奥様であるところの桂ミツ先生がね、もう、どうにもこうにも辛抱できない事で、とうとう御本部に、お里があの御本部の近所でありますから、帰られた。四神様のお口添えで桂先生と御一緒になられたんだけれども、もう辛抱ができないということで、金光に帰られた。二代金光様四神様にお取次を願うと、「おミツさん、そんなに苦しいか。」と。「もう、苦しい段じゃありません。他のことならどげな辛抱でもしますけれども、この事だけは、金光様、辛抱できません。」とおっしゃった。そしたら、四神様が、「その辛抱できんところを辛抱するのが辛抱じゃぞ。」と教えられたということです。
 だから、例えば、そういう辛抱しぬくという事もです。信心の帯をしっかりしとかねばできませんけども、御理解を受けますとです。今度は、それが反対に、お礼を言わねばならないような事になってくるのです。その運命の赤ん坊を、本気で大切にする事になってくるです。ここで腹かいたら、いわば、憎んだら損するという事になってくるです。分かってくるのです。
 ある教会の若い先生が、もうそれこそ、もう信者さんとのある対立問題で、もう、どうにもこうにもできない。もう、自分は教会長をやめる。とにかく、合楽の先生にいっぺん聞いてもらうと言うて、お参りして来た方があった。
 私が丁度、その何日か前に、御理解に、御心眼に八の字をね。八の字を横にしたお知らせを頂いた。八の字を、こう横にして書いてある。数字の八の字。それだから、私は、もうとにかく、丸いものを、こうねじると八の字になるでしょうが。だから、腹がよじれるごたる時、もう本当に腹がよじれるごと、腹ん立つごたる時でもです。これを、こう解いて丸く輪にしていかなければいけないという御理解を聞いてもらったんです。
 そしたら、秋永先生夫妻が、朝の御祈念参りに来ていらっしゃいましたが、お届けしてから、先生。その八の字ば横ということは、あれは、あの数学の記号、符号ちゅうですか。あれは、無限大という印だそうですね。こちら、無学ですから、それが分かりませんでした。
 それこそ、腹をこうやってよじれるごと、腹の立つ時であってもです。それを、例えば、辛抱しぬかせて頂くというところにです。所謂、無限大。限りのない、もう限りのないおかげの頂けれる元になるのだろうということがございました。だからその話をしてあげました。まあ、今は、おかげで、その方も教会を止める事もなしに、現在、段々おかげを頂いとられます。
 もう本当に、もうそれこそ、腹をこうやって、よじれるほどに、苦しかったことであったり、腹の立つ事であってもです。それが御神意。それが無限大のおかげにつながるという事を知っており、分かっており、信心の修行ができておりますとです。それをじーっと、自分の腹の中に持たせて頂いて、よくよく考えていくとはがいい、又、残念。けども、よくよく考えよると、これはかえって、神様にお礼を申し上げねばならんことたいという風にまで、自分の心が有難い事になってくるのです。
 それこそ、腹を立てたら損する。しかもです。自分が泥棒しとらねばよし。乞食というて、もらわねば乞食じゃなし。神様が見ておいでなんです。神が、よく見ておるとおっしゃる。神様が見ておいでの世界に、私共が本気で、真一筋に生き抜いていくという生き方が、信心の、私は道だと思います。だから、そういう、常にちいとした事にでも腹を立てたり、例えば、もう、大きな問題というたら、もうそこでです。もう止めるもう最後の決断をするといったような生き方で行く人の運命が、いつまでたっても、良い運命に開けない筈。本当のおかげが頂けない筈だという事も分かりますですね。だから、そういうところを乗り越え乗り越えしていくところに、力も頂ける。お徳も受けられる。そのためには、本気で、私共、どのような事に出会ってもです。信心辛抱のできれる、それこそ、神様が見ておいでになるのですから、しっかり信心の帯を締め直し締め直しして、おかげを頂いていかなければならんと思うですね。どうぞ。